誰かに頼まれると、わりとすんなり動ける。
なのに、自分のためとなると急に重くなる。
やる気がないわけじゃない。サボりたいわけでもない。ただ、なぜか腰が上がらない。
この違和感、ずっと「自分がだらしないからだ」で片付けてきた。
でも最近、そうじゃないかもしれないと思い始めた。
問題はやる気じゃなくて、自分に”行動の許可”を出せていないことだったのかもしれない。
自分のためだと、なぜか動けない
頼まれると動ける。
「これお願いできる?」って言われると、面倒だなと思いながらもやれたりする。
でも自分発信だと、なぜかそうならない。
「やろうかな」って思ってから、気づいたら別のことをしている。
サボりたいわけじゃないし、やる気がゼロってわけでもない。ただ、なんとなく腰が上がらない。
この感覚、うまく説明できなくてずっと放置してたんだけど、最近少しだけ言語化できた気がしている。
「許可を外に求める」という構造
最初は「承認欲求が強いのかな」と思ってた。
でも、それとはちょっと違う感じがして。
承認欲求って「褒められたい」「認めてほしい」みたいなニュアンスがある。でもぼくが感じていたのはもう少し手前の話で、動く”理由”を外に求めている、という感覚に近かった。
誰かの役に立つ、頼まれた、喜んでもらえる。
そういう理由があって初めて「動いていい」という感じになる。自分のためだけだと、理由として足りない気がしてしまう。
承認欲求じゃなくて、行動の許可を外注している、というか。
貢献できるなら動ける、でも自分のためだけだと動けない
「誰かの役に立つ」がスイッチになっている。
それ自体は悪くないと思う。でも、スイッチが外側にしかないと、自分では電気をつけられない。そういう状態がずっと続いていたのかもしれない。
なぜ自分に許可を出せないのか
少し掘り下げてみると、たぶん自分の価値を「役立ち度」みたいなもので測る癖がついている。
誰かの役に立てた日は、なんとなく充実している。何もしていない日は、どこか落ち着かない。
「役に立てないと存在していていいのかわからなくなる」は大げさかもしれないけど、うっすらそういう感覚がある気がして。完全に否定もできない。
「これをやっていいのか」と自分に問い返してしまう
やりたいことがあっても、「これって意味あるのかな」と考え始める。
意味=誰かへの貢献、になってるから、自分だけが喜ぶことには許可が出ない。
この問い返しが、ずっと行動にブレーキをかけていた。
AIに相談したら、自分でも気づいていなかったことが出てきた
「なんで自分のためだと動けないんだろう」
そのままChatGPTに投げてみた。答えが欲しいというよりは、もやもやを整理したかった感じ。
投げたのはこんな言葉↓
💬 ChatGPTへの投げかけ
自分のためだと動けない理由を整理して
これが返事↓( スクショをそのまま貼ってる)
返ってきた内容を読んで、ちょっと驚いた。
自分の中にあったものが、文章になって出てきた、という感覚。答えを教えてもらったというより、「あ、ぼくこういうこと思ってたんだ」と気づかせてもらった感じ。
AIって、鏡みたいだなと思う。うまく言えないけど、自分が投げたものが別の角度で返ってくる。
他者貢献は悪くない、でも”経由”は消耗する
アドラー心理学では、他者貢献が幸福感の源になるという話がある。
それはわかる。誰かの役に立てたとき、素直にうれしい。
ただ、「貢献しないと動いてはいけない」になってしまうと話が変わってくる。
自分が動くたびに、貢献できるかどうかを確認しなきゃいけない。それは、じわじわ消耗する。
貢献を”喜び”として選ぶのと、貢献を”通行証”として使うのは、似てるようで全然違う。
▼ アドラーの「貢献感」について、分かりやすい記事があったので貼っておきます。
アドラー心理学「貢献感」とは?
自分に許可を出す、その練習
完璧な解決策はないと思ってる。
ただ、気づいたことがある。
「これをやっていいか」と自分に問い返したとき、「なぜダメなの?」と聞き返してみる。
誰かに迷惑をかけるわけじゃない。誰も傷つかない。それなら、たぶんやっていい。
許可はもともとぼくが持っていたのに、確認する相手を間違えていただけかもしれない。
AIに話しかけてみることも、ひとつの練習になる。「自分がどう感じているか」を言葉にするだけで、自分への理解が少し変わる。そのくらいの小さなことから、始めていいと思っている。
▼あわせて読みたい
「許可が出せない」の一歩手前、「行動の重さ」に焦点を当てた記事。セットで読むと理解が深まります。
他者のために動けるのに自分のためには動けない、その根っこにある心理をほぐした記事です。
「なぜ動けないのか」をさらに深掘りしたい人へ。AIとの対話で見えてきた3つの原因を紹介しています。




